ネパール記(終)「レクサス」も「オリーブの木」をも掴む世界に身を置いて

 地方に向かうバスのなか、二車線の狭い道路を対向車と擦れ違う度に恐怖心から思わず「うっ」と呻き声が上がる。このバスは少しでも接触すれば、数百メートル下に落下してしまう。慣れない当初は常にこの恐怖心との戦い、余りに体に良くないため、瞼を閉じることにし、視界を一度、暗闇にさせる。光が入ったときに何事も起こっていなければ、僕は生きている証拠。そして、10数時間のバスを終え、夜半に着いた場所はカトマンズから数百キロ離れた丘陵地帯、村を灯すものは極々僅か。ちょうどニューヨークに住む友人と連絡していたところ、送られてきたのは友人の勤務地、マンハッタン五番街近くのグランドセントラル駅高層ビル一室からの朝の景色。技術革新によって知ることの出来る両者の数奇な境遇が実に滑稽であった。


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ブッダ生誕の地ルンビニにて、スマホ片手に念仏を唱えるアジア人観光客

  僕が初めて原著で読んだ本にNY Timesの名コラムニスであるトーマス・フリードマン執筆の「レクサスとオリーブの木」があります。筆者は、愛知県豊田市にあるほぼ無人化されたレクサスの製造工場を「技術革新」の一面であると驚嘆を持って受け入れる一方、世界では未だに家と家の間に生えた一本のオリーブの木の所有権を巡って争いが起きている「土着の文化」が存在し、この相反する「レクサス」と「オリーブの木」という二つの文化は反発しつつも、長い歳月をかけて融合していくであろうというのが筆者の提言でした。


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インド国境沿い、南部タライで出会ったヒンズー教司祭

 以来、僕はこの「レクサス」と「オリーブの木」が融合する第三の世界を探し求めるという長い旅が始まります。2007年に短期駐在を要するネパールのプロジェクトに自ら手を挙げたのもこの旅の一環。中印に挟まれた内陸国であるネパールでも、空は青く一つに繋がっている。「インターネットで空を繋げてくれないか?」、クライアントのボスから告げられた僕の駐在時での役割。当時、専門的知見を有していた分野ということもあり、大学機関を中心に、同国で初めて正式にFacebookSkype等のコミュニケーション・ツールを一斉導入、僕を常に好奇心の目で見る若いネパール人に多少の知恵を与えることが出来たと思う。導入したサービスはネパールで瞬く間に普及をし、10年間変わらぬ礎を作ってくれ、僅かばかりの自信と安心を今でも僕に与えてくれます。


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中国チベット国境沿いで出会ったシェルパ族と思しきチベット系山岳民族

 一方で、大きくそして速く変化するネパールの未来は必ずしも明るいとは言えません。2015年に起きたインドによる経済封鎖が終了後、中国の「一帯一路」の台頭に対抗する形で中印投資が一気に加速するなか、貿易赤字が拡大、債務が大幅に膨れ上がっています。


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目元や額に幸運を祈る特殊なメイクを施す赤ちゃん

 2018年8月22日付けの現地紙「カトマンズ・ポスト」の記事"Trade deficit soared to Rs1.16t in last fiscal"によると、ネパールの貿易赤字が前年度比26.7%増、製造業では輸出額11.1%増の810億ルピーに対し、輸入額25.5%増の1兆2420億ルピー。輸出GDPは0.1%減の2.7%に対し、輸入GDPは3.6%増の41.3%。輸入元国はインドが全体の65.2%を占め、インドに大きく依存する実体経済は変化することなく、貿易赤字縮小のために、政府が輸出強化指定する主要品目9つもカルダモンや紅茶等、一部の品目に限り、輸出額が増えているものの、製糸繊維やパシュミナ等の品目は振るわず、政府は未だ有効な政策を打ち出すことが出来ていません。ネパールが最も輸出競争力を持っているのは引き続き300万人を超える国民が世界に散らばる「労働力」である。



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僕の大切な話し相手のホテルのメイド。左側の彼女はボン教ヒンズー教の要素の混じったチベット仏教を信仰するタマン族

 また、外国人にとっては多民族国家の「カースト制度」理解は大きな困難を伴うでしょう。言語学では北からチベットビルマ語派が南からインド・アーリア語派の影響を受けるネパールでは123言語の存在が確認がされ、それぞれが固有の文化を形成しています。


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ポカラ近郊丘陵地帯、グルカ兵の由来として知られるゴルカ郡にて

 インド同様カースト制度があるものの、人口僅か3,000万人にも満たない同国ではヒンズー教での身分制度カースト」は民族単位を現す「カースト」と表現されることが多く、また、宗教単位ではヒンズー教のなかに仏教が、仏教のなかにヒンズー教が文化混合し、カーストがその掛け算となる。一つの事実に対して無数の考えがあるというのは知る必要があるでしょう。それはまさに多面鏡となり、幾何学模様に反射する事実は価値基準を曖昧にし、多くの外国人の判断を苦しめさせ、中印以外の国からの外国直接投資FDIの流入が進まない一つの要因となります。

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カトマンズの定住民族「ネワール族」の結婚式にて踊り続ける女性たち

 そのようななか、記を通じて、1つだけ強く主張したいことがあります。ネパールは東西南北、それぞれ文化が異なり、北は中国の、南はインドの影響を大きく受けるなかで、中国でもインドでもない第三極のアジア系外国人の需要が確実にあるということ。僕が自由に産地に赴くことが出来るのはこの特権を活用しているだけに過ぎず、中国人もインド人にも出来ないこの役割は日本人がこの地で活躍する十分な文化的下地となります。また、裏切りや欺きの連続となる異民族コミュニケーションの間に入れるのも特権でしょう。そのなかで同国特有の家父長制度が根付く歴史的背景下、「リーダーシップ」を示す者に対してのみ、同調者が後に続いてくれるというのも実感し始めています。


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カトマンズ郊外焚き火をしながら会話をしたネワール族の少年、同族は仏教徒でありながらも、ヒンズー教由来の身分制度を持つ

 この10年間、ネパールの首都カトマンズの景色に大きな変化が見られなかったものの、水力発電所の建設が進み、国内では約2年間、計画停電が実施されておらず、電力状況は圧倒的に改善されています。一方、地方に赴けば、清浄な空気に全くと言って良いほど手が加えられていない産地と豊かな水は周囲にある山々に射影され、他の何よりも美しく。そのなかで素材の良さを引き出し、新たな価値基準や最先端の知恵を与えるのが僕の役割である。10年前と同じように、ネパール人に寄り添い、日本で培った全てを現場に落とし込み。緩衝国家に過ぎなかったネパールは今や地政学的観点から、人口30億人マーケットの中心地へと変貌。日本では到底味わうことのダイナミズムのなかで勝負に挑める醍醐味は言葉に置き換えることの出来ない興奮を与えてくれます。


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南部タライの産地にて

 もちろん全てを肯定することは困難と言えるでしょう。熾烈な競争、中印の存在、第三国である難しさ、充分ではない事業環境、不確定要素の高い将来、宗教文化面、アイデンティティの確保等。特に、日本人としてどうあるべきかについては強烈に苛まされます。しかし、悩む暇を与えれくれないほど、この国は成長し、模範解答なく、世界の在り方は時代とともに変化し続けます。それに合わせて自分を成長させ、変化に耐え得る人間になることが生き抜くための前提条件且つ第一条件になるのでは、と。だからこそ、「レクサス」も「オリーブの木」をも掴む世界に身を置くことは僕の人間的欲求を満たしてくれ、このネパールという地を全力で駆け抜けて行きたいと思います。

 

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ネパール記目次

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ネパール記(5)出稼ぎ労働者の実態と開く日本の門戸

 2018年11月某日、ネパールの首都カトマンズにあるトリブバン国際空港に降り立てば、真っ先に目に入る異様な光景。群衆が一台の車を囲み、その上にカメラマンらしき人物がその車の荷台にある何かしらの映像を収めています。複数の白装束を身に纏ったネパール人にマリゴールドの花輪が多く車に垂れ下がり、近付く僕を追い払おうとする警察官。ネパール特有のデモやストライキではなく、それが宗教的儀式であることは容易に想像が付きました。出稼ぎ労働者の無言の帰国。泣き崩れている者もおり、恐らくその遺族でしょう。自国に主要な産業がなく、失業率の高いネパールでは、多くの若者が「出稼ぎ労働者」として外国に赴き、その家族・親族の生活を支えています。

 

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写真中央左側にカメラマン、右側に棺の蓋を抱える白装束姿のネパール人が遺体を見つめる 

 「キャッシュ・リッチ・カントリー」と呼ばれるネパールでは外国からの送金がGDPに占める割合は約25%、これは世界で最も高水準にあり、中東、東南アジア、インドを中心とした出稼ぎ労働者は300万人を超えています。過去10年間での合計送金額は計380億ドル、2016/17年度のGDPは250億ドルのネパール経済を支えるも同期間における死者が労災事故を中心に6,708人。その内訳は約35万人が住み、ネパール最大の労働力の供給先となるマレーシアで過去10年間での死亡者数が2,443人、サウジアラビアでは同1,841人、カタールでは同1,326人。1日1人以上の尊い命が失われていることになり、2018年8月12日付けの現地紙「カトマンズ・ポストの」記事、"Nepalis prefer to work in Malaysia—deadliest destination"では、「死の最終地」と形容されています。マレーシア政府とは多くの労使協議が行われ、ネパール政府は待遇の改善を要求、労働ビザ発給の要件緩和等が盛り込まれた労使協定に今年11月に両国政府が署名。また、同国の外国人労働者最低賃金が来年1月より改定、月額1,000リンギットから1,100リンギット(約3万円)に僅かながらの引き上げとなるも、新規雇用を生まない自国産業と「死の最終地」に辿り着かざるを得ない窮状にネパール政府は十分な対策が出来ていません。内戦及び政情不安はネパールを荒廃させ、中印投資が盛んになってきた現在ですら、若者を中心に雇用機会に恵まれないのは事実である。

 

  「労働の隠れ蓑」と強い批判を受けることもあるネパール人留学生は、上述の「死の最終地」を敬遠するために、近年、急増傾向にあります。国別滞在数は豪州、日本、インドの順となり、日本は直近10年間で滞在者数が約10倍となる9万人近く、うち留学生は2万5千人。2018年10月21日付けの現地紙「ネパーリ・タイムズ」の記事"Migration Certificate"でそれらを可視化、人口3,000万人に満たないネパールは世界各国に留学生として点在し、小さいながらも、そのコミュニティを築き上げています。うち、日本の東京では新大久保がネパール人街を形成しつつあり、多くのカレー屋に多くの留学生が客として足を運び、なかには冠婚葬祭等の宗教的儀式が行える別室を裏に設けている店もあるほど。当初、日本に先に労働者として流入したインド人主体のカレー屋が多かったものの、2006年のネパール内戦終結を受け、ネパール人留学生は近年、急増。在日ネパール人数(約9万人)も在日インド人数(約3万人)を遥かに上回り、外国人労働者としての対前年度伸び率についてはベトナム人に次ぐ、第二位。今や日本に欠かせない労働力となりました。


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新大久保にあるネパールカレー屋の従業員、とても陽気だ

 カトマンズ中心街に語学学校が立ち並ぶ一角があり、先日、訪問をして来ました。広告表示は主に豪州、日本、米国、カナダ、そして韓国。高校卒業資格が求められる日本に対し、大学卒業以上の学歴を求める豪州、米国、カナダ。聞けば、やはり一番の希望地は豪州のようで、それはネパールにおける英語教育により言語障壁の低さが要因でしょう。米国、カナダについては定住することを目的に一度、日本等含めた外国で私財を蓄え、査証発給の要件を十分に満たしてから後に行くものが多い印象を持っています。


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カトマンズ市内最大のバスターミナルがあるラトナ公園近くの語学学校通り

 一方、近年、希望者が殺到する韓国は留学生ではなく、主に労働者としての渡航となり、内戦終了直後の2008年に開始された韓国政府によるネパール人の雇用許可制度EPSは、非専門人材の外国人労働者を受け入れる制度。EPSが課す韓国語試験の倍率は10倍とされ、保証金を支払わずに直接、韓国企業に雇用される制度はネパール人の間で人気となっており、製造業や農業に従事するネパール人は給与は月給平均157万5千ウォン(週40時間労働)と言う報道がネパールの現地紙記事"South Korea announces hike in wages"でされている。数字だけで判断すれば、日本の賃金とほぼ大差がなく、在韓ネパール人数はアジアでは今や日本に次ぐ二番目の約5万人にまで急増。


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日本語学校で教鞭を取るチェタン・タパ氏、彼の10年前短期駐在時の間接的部下である

 韓国のEPSは概ね、ネパール人には好意的に受け入れられているものの、その倍率の高さと狭き門は学生の負担になっているようで、悪質ブローカーの一斉摘発や査証発行の厳格化が顕著になって来てはいるが、日本は優秀な成績を収めた高校卒業資格を有するネパール人にとって引き続き、魅力的な国に映っています。その授業を見る機会に恵まれ、その後、日本語教師且つ現地送り出し機関のディレクターを務めるチェタン・タパ氏に多くの知見を頂戴した。当該送り出し機関はネパール人に対し約半年に亘る日本語教育を段階的に実施し、提携する日本の専門学校や大学の受け入れ許可を貰い、日本大使館に留学申請の手続きまでを引き受け、その報酬は成功報酬とし、1人当たり10万ルピー(約10万円)。学生の月額授業料は2千ルピーであり、カトマンズ市内にある複数の日本語学校のクラスを請け負う。一方、保証金を150万近く求める悪質な送り出し機関が存在しているのも事実で、今回、彼らに触手することは出来なかった。

 
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 授業の風景、「みんなの日本語」を教材とし、極めて真面目に授業に取り組んでいる

 授業を参観するなか、タパ氏に促され、30分ほど、日本語クラスの教師を一時的に引き受けることになりました。教材「みんなの日本語」の読み合わせを簡単に済ませ、まずはみんなの緊張をほぐすところから開始。先入観からか、「渡航に際し、不安はありませんか?」等のネガティブな質問をするも、「一切ありません」と満面の笑みで返され、「では、僕に聞きたいことはありますか?」と訪ねたところ、真っ先に来た質問は「クリスチャーノ・ロナウドはいますか?」。そうネパールの若者ではクリケット以上にサッカーが大人気。何故かそこからサッカー談義と日本地図の内容となり、生徒の半数以上が福岡を留学先として希望しているため、「ロナウドはいないけど、フェルナンド・トーレスはいるよ」と白板に大きく書く文字は所属先のチーム"Sagan Tosu"。そうすれば次から次へと来る質問、「イニエスタがいると聞いてるんだけど、どこにいるの?」。「大阪(実際は神戸)にいるんだけど、鳥栖にFトーレスと試合をするからいつでも見れるよ。新幹線だと値段が高いけど、バスで来ることも可能だし、福岡はご飯が美味しいよ。街も狭いしね」と。彼らの好奇心を引き出し、他愛もない会話をすることが両者の距離を近付ける。


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福岡を中心とした日本地図、ネパールの若者にとってサッカーは異国への不安を和らげる

 短い時間であったものの、初めて触れる「将来の日本への留学生」。内陸国でありながらも、内戦終了以降、政情の安定化が図られるなか、教育水準も上がってきたため、彼らに悲壮感は全く感じられなかった。幾多の苦難を乗り越えてきた国民の強さを感じたときでもあり、最後に彼らにこう伝えました。「日本人として常に皆さんの来日を歓迎しています。そして、日本で困難な場面に遭遇した際は、いつでも僕に連絡して下さい」と。外国人労働者に多くの批判があるのを重々認識したうえで、少なくとも僕は彼らの味方で有り続けたく。


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日本語クラスの生徒、多くが高校を卒業したばかりの10代、未来は明るい

  そして、2018年12月21日付けの現地紙「ヒマラヤン・タイムズ」紙の記事"Govt starts process of sending workers to Japan from April"に以下の記述が有りました。

Earlier, the Japanese government had formally announced that it would allow Japanese firms to hire workers from nine countries including Nepal and had changed its existing laws as well. 

  外国人労働者受け入れ拡大を目指す改正出入国管理法に基づき来年4月に創設される新在留資格「特定技能1号」の日本語試験、対象となる8ヶ国+1のうち(ベトナム、フィリピン、カンボジア、中国、インドネシア、タイ、ミャンマー、モンゴル)、調整中の1ヶ国にネパールが決定しました。日本では本日12月25日付の産経新聞の記事「外国人拡大方針を正式決定 受け入れは当面9カ国」で報道。日本からの産業投資が乏しいため、実績が少ない日本への非留学生の労働者。今後、多くの投資機会に恵まれ、両国の距離は必ずや狭まっていくでしょう。ネパールにとって素晴らしい時代が到来することを強く信じています。

 

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ネパール記(4)中国チベット国境沿い、ヒマラヤで進む「一帯一路」

 定宿がある場所はバックパッカーやヒマラヤ・トレッキング客が集うカトマンズ随一の繁華街「タメル」。自由と快楽を求めて多くの欧米人がこの地を訪れ、酒と大麻に溺れて行く。そして、彼らの雄叫びがライブ・ミュージックに乗って協奏曲となり、深夜に至るまで騒音となって夜を盛り上げる。金曜の深夜になると、今度は酒に酔った現地若者同士で殴り合いの喧嘩が多く見られ、それを警察が棍棒で殴り倒して行く。この国は内戦の混乱期を経て、警察の対処が容赦ない。警察が徐々に撤収する深夜1時を過ぎると現れてくるのが女装したゲイ。小柄で華奢な出で立ちと暗闇のなかでは、ついつい声を掛けそうになるが、それは悪魔の道。この国の文化は極めて多様性に富んでいる。

 
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金曜日夜のタメル。週末にかけて、近年、女性がスカートを履く姿も多く見られる

 それでもここ数年で変化がある。2015年の地震及び経済封鎖で急速に落ち込んだ外国人旅行客は前年度比20%を上回るペースで増加しており、今年は初の大台突破、100万人超えが確実視されている。政府も"Visit Nepal 2020"というキャンペーンを打ち、2020年までの観光客数を200万人とする施策に打って出ている。その中心は中国人観光客、既にタメルにはチャイナタウンが出来つつあるほど。地域別では引き続き欧州が全体の三分の二近くを占めているものの、国別最多は「オープンボーター」協定を結ぶインド、そして、続くは最大の伸び率、前年度50%増で推移する中国人。ダンスバーで大盤振る舞いするインド人や中国人に囲まれながら、孤軍奮闘、酒を飲むというアジアの縮図を経験することを是非勧めたい。


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トリブバン国際空港にある"Visit Nepal 2020"の広告、サムスンはネパールで一番人気 

 中国人観光客増加の契機となったのは、2015年の経済封鎖時に中ネ両政府が合意した訪ネ中国人査証の廃止。人的交流も含めて、中国と密な外交関係を築き始めている。「一帯一路」構想は多岐に亘り、その一部が、ネパール北部を中心に進む水力発電所の建設、電力の安定供給に寄与。計画停電が廃止されてから約2年経過するなか、国内需要量を満たすために、引き続き、約500MWの電力をインドから輸入しているものの、政府は100%の国内供給を目指しており、中国が資金及び技術的観点から支援。そのため、国内供給力の向上で停電自体が珍しくなり、たまに訪れる停電時にはタメルのバーが真っ暗に、慣れていないのか女性の甲高い悲鳴がホテルにまで響き渡る。体力温存のため滅多に外出しない僕は、それを毎回ホテルの部屋で聞く。正直、虚しい。


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ラスワ郡ドゥンチェ村にて。シャフルベシと合わせてランタン・トレッキングの入り口となる 

 そんな喧騒地を離れ、何故か今まで無縁だったネパール北部ラスワ郡に休暇を兼ねて、気になる食材を確認しに行くことになった。目指すは二泊に分け、中国チベット国境沿いの村。一方、工事中の道路が多く、歴代最悪路。帰りは特に舗装状況が悪く、150キロの距離で10時間のバス移動。また、行きのバスでは国境に近付くにつれ、検問が多くなり、警察がバスのなかに立ち入り、全乗客の荷物検査を行う。チベットに近付いている証拠であろう。標高が上がるにつれ、道路が狭くなり、トラックが擦れ違うのも困難になる。

 

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立ち往生するトラック、双方ともに身動きが取れない

 2015年に強行されたインドによる「経済封鎖」において、南部タライにおける国境検問所が閉鎖されるなか、ネパール政府は中国と協議を行い、中国石油と覚書を交わすなど、一時的に中国から石油等の日用品が輸入され、インドへの強い牽制となった。一方、ネパール地震において北部の道路に甚大な被害が発生し、ラスワ郡の東に隣接するシンドゥ・パルチョーク郡タトパニの国境検問所等が封鎖に追い込まれるも、新たなドライポートや通関施設の建設に合意し、同国境検問所は2019年5月の再開の見込みとなっている。その他、中国電信が中ネ国境沿い山岳地帯に約200kmの光回線を通し、ネパールテレコムにインターネットサービスを提供、タタ・コミュニケーションズ等、インド企業によるネパール市場の独占が終焉することで競争が生まれている。30日間有効の容量16Gのデータパックが僅か1,200ルピー(約1,200円)にまで価格が下がり、カトマンズやポカラでは4G回線が使用可能。時代の進化は実に目覚ましい。

 
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ラスワガディの国境検問所手前にある通関地で朝を待つトラック

 そして、2018年9月、中ネ両政府は通過・交通協定の改正案に合意し、ネパールは中国の天津、深セン、連雲港、湛江の内港使用が認められることになった。これにより、「インド・ネパール通商・通過条約」で定められたネパールによる西ベンガル州コルカタ港及びアンドラプラデシュ州のクリシュナパトナム港の施設利用等、インドによる独占に終止符が打たれ、今後、ネパールは合計6つの港にアクセス可能。ここラスワ郡ラスワガディにも国境検問所があり、数キロメートル手前にある通関地で通過許可を待つトラックが待機。また、即席麺含めた中国製品も多く見られ、インド国境沿い南部タライとは全く異なる景色となる。


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ラサ・ビールに即席麺が実に質素で美味しい 

 ラスワガディでは水力発電所の建設も進んでいる。偶然、出会った中国人技師にこう聞いた。「山峡ダムの開発か?」。「良く三峡ダムのこと知ってるな。オレは一応、山峡大学出身なんだけど、いまは違う電力会社で働いていて、この近くに宿舎があるんだ」。彼の作業服に書かれた社名は「中国電力(China Power)」「中国水電(Sino Hydro)」。聞けば、この二社から約300〜400名の中国人技師がネパール国内の開発に従事し、ラスワガディ近郊の本宿舎には30名ほどの中国人技師が常駐しているという。

f:id:masaomik:20181219012638j:image夜通し作業が進む中国資本による水力発電所の建設

 また、最大の注目は中ネ両政府が合意したチベット鉄道のカトマンズ延伸計画であろう。いま現在、中国側によるフィージビリティスタディF/Sが行われており、第二の都市ポカラや南部ルンビニとの接続計画も浮上している。複数ルートが検討されているなか、主要路線は本ラスワ郡を通過することとなり、総工費27.5億ドル、ネパールでの総距離72.5キロ、うち98.5%が橋梁ないしトンネルがF/Sで提示されており、建設費用についてはネパール側は中国の負担を求め、中国側は等分の費用負担を要求。パキスタンスリランカで見られる対外債務の拡大は無視出来ない現実だ。
  

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チベット鉄道延伸計画が検討されているラスワ郡

 また、最大の障害はその地形。ヒマラヤ麓の同地域は標高3,000〜4,000mの山々に囲まれ、沿線の大半が橋梁ないしトンネルとなるため、難工事であることが容易に想像付く。チベット鉄道は2020年までに中ネ国境ネパール領土ラスワガディから25キロのキーロンに延伸されることは発表されているものの、カトマンズへの延伸計画が簡単に進むとは到底思えない。一方、北部で進めるチベット鉄道の延伸計画に対抗するかの如く、インド国有鉄道カトマンズ延伸も計画されており(印ビハール州〜カトマンズ間)、緩衝国家を舞台に熾烈な競争が生まれようとしている。ネパールはこの競争に対し、国家繁栄の道筋を明確に立てる必要があるだろう。

  この二日間、食材を探し求めに行ったものの、初めて間近で見るヒマラヤに酔いしれてしまった。この記もいままとめているだけで、滞在中は何一つ考えていない。また、今回の休暇に当たり、「仕事ばかりせず、たまにはネパールを楽しんで下さい」と、快く送り出してくれた仲間に見当たるのは感謝の言葉ばかり。


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バスから覗くヒマラヤ山脈

 僕は決めた。次回はヒマラヤ・トレッキングをしにすることを。国内線が就航しているエベレストやアンナプルナ連峰とは異なり、移動手段は陸路のみというのは僕の性格に適合している。周囲に確認すれば、四泊あれば、十分にヒマラヤを楽しむことが出来るという。朝起きて目の前に映るのヒマラヤに紅茶を飲みながら過ごした二日間は今までになく、心が穏やかになり、時間を全く気にすることなく過ごせたのは、近年のネパール滞在では殆ど記憶にない。


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この先がランタン渓谷

 然しながら、ヒマラヤで進む「一帯一路」が想像以上であることは言うまでもない。

 

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ネパール記目次

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ネパール記(3)インド国境沿い、南部タライを駆け抜けて

 国土面積は北海道の約2倍、ちょうどその中心に位置するカトマンズからは東西南北に向かうバスが発着しており、市民にとって唯一無二の移動手段。外国人観光客が多い地域、例えばアンナプルナ連峰が見渡せるネパール第二の都市ポカラや、仏陀生誕の地である南部ルンビニ、またゾウやサイがいる国立公園、チトワン等へは「ツーリストバス」と呼ばれる大型バスが運行しているものの、長距離バスは「マイクロバス」と呼ばれるハイエース等の商用車が高低差が激しく狭い未舗装の道路で大活躍。


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 南部タライを通って西に400キロ向かうバスの予約は最短で到着するよう産地が行ってくれ、問題はその乗り場。長距離マイクロバスの乗車については、どうやらネパール人にとっても時より困難が伴うようで、外国人にとっては至難の業。今回、渡された情報はドライバーの電話番号とチケットカウンターがある場所のみ。定宿から徒歩20分、待ち合わせは朝5時半、日の出前となり、周囲は寒さに耐えかねて焚き火をしている人がチラホラ。指定された場所に着いたものの、チケットカウンターの場所が分からない。携帯に電話をし、ドライバーと話すも細かい場所を伝えてくるためチンプンカンプン。常套手段は道行く人に「ダイ(お兄さんという意味)」と声を掛け、無理やりスマホを渡し、ネパール人同士で話をさせること。どうやらダイは「オレに付いて来い」と言う。経験則で、この状況で嘘を付くネパール人はいないということは知っている。


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 チケットカウンターを発見。指定された場所から入り組んだ道を徒歩で5分、市内にある主要バスターミナルとは違い、特に暗闇では見つけるのが難しい。とにかく無事バスチケットを購入(代金900円)。実はここが乗り場ではないことは知っていて、電話番号を知っているドライバーとここで落ち合い、今度はドライバーのお連れらしき人物の二輪の後ろに乗って15分ほど移動する。まさに乗車前からアドベンチャーカトマンズ市内は「リングロード」と呼ばれる全長25キロ強の環状道路が走っており、二輪が着いた先は南部タライを西に向かうハイウェイが出ているリングロード沿い。朝6時、まだ日の出前のなか、当地には無数のバスが停車しており、チケットカウンターで会ったバスドライバーと合流、バスを待つ。今回の遠征をサポートしてくれる大事な仲間に乗れてまずは一安心。


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 「飛行機は使わないのか?」と良く日本で聞かれるが、答えは「使わない」。エベレスト・トレッキングやアンナプルナ連峰に向かう国内線は就航しており、トレッキング客を中心に利用が進んでいるものの、遠征先はド田舎。飛行機の定時就航率も低く、また、途中まで空を経由し向かっても、最終目的地までは地方空港からバスに乗る以外の手段がなく、その割には値段が桁違いに高い。バスでは1,000円未満で行ける地も飛行機であれば片道1万5,000〜2万円かかり、それでも飛行機が予定調和の遅延をしたら到着時刻はほぼ同じ。カトマンズから確実に産地に向かうためにはバスが最も効率的である。今回は約12時間、南部タライは平地であり穀倉地帯。風景は至って平凡、「12時間ってニューヨークに行けますよ」。大学時代の友人に言われた痛烈な言葉。正しい。

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 ネパールのGDPのうち25%が一次産業。主要産品はコメ、小麦等の穀物や家庭料理に欠かせないマメ類やジャガイモ等、また、歴史的背景から、例えばネパール東部イラムは紅茶の一大産地。「ダージリンティー」で有名なインド西ベンガル州ダージリン地方は嘗てネパール王国の領土であり、セイロンのウバ、中国のキーマンと並び世界三大銘茶のうちの1つ。今現在、ネパール東部イラムで生産された紅茶の大半は嘗ての同胞が多く住むダージリン地方に出荷し、「ダージリンティー」にブレンド。一方、近年、イラム・ティーへの注目が集まり、政府は「ネパール・ティー」として輸出強化品目に指定。


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 ネパール東部イラムはまさにインド西ベンガル州ダージリン地方に隣接しており、カトマンズからは距離にして約450キロ。ダージリン地方の北部が1975年にインドに併合されたシッキム州、以東はインド北東州6つがあり(マニプル、アッサム、ミゾラム、メーガーラヤ、ナガランド、アルナーチャル・プラデーシュ)、インド国有鉄道は首都デリーや商業都市ムンバイ、その他、チェンナイやバンガロール等、国内主要都市との2年以内の鉄道接続を計画しており、路線拡大を念頭に入れ、インド・ネパールを結ぶ鉄道車両のレール間隔は従来の狭軌から広軌に交換が終了。注目されるべきは中国の「一帯一路」構想だけではない。


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 道路整備の状況やハイウェイの確認のため、移動データはGPSで毎回取得し、記憶に頼らない管理を実施、そして産地からカトマンズに物流を組む際に活かす。当然、未舗装であれば速度は落ち、道路封鎖時の迂回路を探し出すためにも地図を含んだデータ管理は必要不可欠。上記データはネパール東部イラムに行ったときのもの、山岳地、丘陵地、タライ平原と3つの層からなる同国は丘陵地間での横の移動手段が乏しく、整備されたハイウェイが通る南部タライに一度出て、東西の移動を行い、最後に一気に丘陵地に駆け上がることが多い。最高2,000メートル近くから最低標高はタライの50メートル。寒暖差は20度近くとなり、車内での着替えが必要。


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 南部タライでは亜熱帯作物も多く生産され、ライチやバナナ、オレンジ、サトウキビ等、丘陵地帯ではコーヒー豆やショウガ、香辛料のカルダモンやウコン、胡椒等の生産も盛んだが、カトマンズ市内を中心に見かける多くの果物は主にインドからの輸入。輸入品占有率は約8割。バナナ、パイナップル、マンゴー、グアバ、オレンジ、ブドウ、スイカ等、また、リンゴは主に中国から輸入、ショウガは中国、インドに次ぐ世界第三の生産量であるものの、約6割をインドに輸出。加えて、二国間の貿易摩擦品目とされ、インドによる緊急輸入停止措置により、収穫期において国境付近で貨物輸送車が数週間、停留することも珍しくなく、ネパール産ショウガの市況は悪化、3年でキロ単価190ルピーから25ルピーまで下落している。


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 南部タライでは養蜂が盛んな地域もあり、カトマンズ市内にあるショップでは多くの蜂蜜が売られている。個人的な好みはサブ・ヒマラヤを原産とする花から採れた蜂蜜。パキスタンやインド北部等、一部の地域で生え、濃厚な食感と優しい香りが僕を惹き付ける。


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 また、「マウンテン・ハニー」と呼ばれる断崖絶壁の崖にある巣から採れる蜂蜜はキロ単価3,000〜4,000円近くで売られており、通常価格の6〜8倍。覚醒作用がある自然成分が含まれているとされ、その希少性から産地訪問のツアーが組まれるほど。「マウンテン・ハニー」が採取される地域に近いポカラの蜂蜜ショップ屋に以前、ツアーを誘われた際に値段を確認。確か、2週間で2,500ドル。ヒマラヤ・トレッキングとマウンテン・ハニーの組み合わせツアー。金より高いグラム単価100ドルで取引されるコウモリ蛾の幼虫に寄生するキノコの一種「冬虫夏草」も付いているぜ、と。

 
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 冬虫夏草の主な国内産地は中西部カルナリ県ドルパ群及びムグ群。収穫期は5月であり、こちらは南部タライではなく、中国チベット自治区との国境沿い、標高3,000メートル以上の高地。中国で乱獲されたため、ネパールやブータン等の産地に業者が触手。利権の固まり、所謂「マフィア産品」。採取を巡って殺人事件も度々起き、関わると碌なことが起きないため、僕は常に無関心を装う。


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  今回訪問した産地はとある品目の収穫期。日本から泡盛を持参し、産地とカレーを食べながら乾杯。双方ともに実りある一年となりますように。


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 最後に。2017年8月にネパール南部タライを襲った集中豪雨により、河川の洪水と土砂崩れに直面し、被災者となりました。本集中豪雨はインドとバングラデシュ合わせて、死者数1,200名以上。雨季のタライは自然災害が発生しやすく、渡航の際はくれぐれもご注意願います。


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 道路を覆う水量で孤立状態となり、この見えない道をジープで突っ切る


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 幾重にも広がる土砂災害。この先、約5キロを徒歩で越える


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 命がけで付き添ってくれた産地側の足元はビーサン、さすがとしか言いようがない


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 記念の一枚。僕は下から迎えに来た車に乗り、彼らは同じ道を徒歩で帰る。絆が強まったのは言うまでもない。本当に有難う

 

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ネパール記(2)緩衝国家が乗り越えた2015年の2つの苦難

 2015年4月25日、日本時間15時頃に速報で流れて来たネパールで大地震発生のニュース、現地映像を見た瞬間に思わず声を失いました。「カトマンズが壊滅じゃないか」。短期駐在終了後、日本でキャリアを積む僕の長年の夢であったアジアでの農場運営は目覚ましい経済発展を遂げているネパールで仲間と共に達成していく決意が出来た2014年の再訪後、足を運び始めるなか、偶然にも地震発生直前までネパールに滞在。夜にかけて徐々に被害状況の内容が具体的な情報として入って来ます。インターネット上では、Facebookが恐らく始めて自然災害及びテロリズム発生における安否確認を行う"Safety Check"機能がスタートし、モニターに釘付け。最終的な被害はカトマンズ以北を中心に死者9,000名近くとなり、中国と国境を面するネパール北部を中心に多くの家屋が倒壊、今尚、震災復興に向けた長い歳月を要する取り組みが行われています。


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被災者の安否情報が右の"SAFE"ボタンで確認、最後の1人の無事が確認されるまで3日を要す

 甚大な被害が発生したなか、気付かされたことは食糧や医薬品を中心とした物資の配給が、物流や政治的事由から大幅に遅延しているにも関わらず、被災者による略奪行為が殆ど起きなかったということ。これは後に起きるインドによる経済封鎖において日用品が輸入されないなか、その限られた配給に市民が正しく並ぶ姿にも重なります。また、首都カトマンズにあるネパール最大のヒンズー教寺院「パシュパティナート寺院」では多くの犠牲者の遺体が荼毘に付され、その遺灰は「聖なる川」ガンジス川の支流となるバグマティ川に流されます。焚き木が不足するほどの遺体があったとされ、また本来、異教徒であるはずの仏教徒の遺族と寄り添う姿を見るに、ネパールという国は、民族間の軋轢を超え、苦難においては互いに手を取り合う多民族多宗教国家であることを強く認識した瞬間でもありました。


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カトマンズ中心にある世界遺産登録の「ダルバール広場」、回りは未だ多くの建物が倒壊 

 ネパールの歴史は2008年に王政が廃止されるまでは18世紀中頃から続くネパール王国として長く繁栄し、その前身ゴルカ王国まで遡ると約500年に近い歴史を有する国。いま現在の領土及びインドとの基本国境線が確定したのが19世紀前半、南アジアで植民地を拡大するイギリス東インド会社との戦いに破れるも、イギリスの保護国となり、王政は存続。1947年にインド・パキスタンが分離独立した後、ネパール王国がイギリス東インド会社と交わした条約での特権は事実上、インドが継承することとなり、ネパールとインドは1950年に「インド・ネパール平和友好条約」(以下、1950年平和友好条約)を締結。互いの国民は自由に国境を通過出来る「オープン・ボーダー」協定を含み、以降、インドによる侵食が本格的に始まることとなりました。それに対し、ネパール側は今なお、1950年平和友好条約を不平等条約とし、インドにその改定要求を行っています。


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ネパール南部タライにあるインドとの国境、オープンボーダー協定により通行が自由 

 2001年に起きた国家最大の苦難となる「ネパール王族殺害事件」は、共産主義の南下を予防するために締結した1950年平和友好条約と、以降、始まるインドによる国内政治への介入が事件に至る背景にあると推論します。特に、友好関係を害する恐れのある隣国との摩擦に関する通報義務(第2条)及び、インドによる武器輸入の独占権(第5条)は長くネパール王国を苦しめることになりました。1951年に王政復古に果たしたネパール王国の第8代君主トリブバン以降の歴代君主がインドの侵略を恐れるなか、中国と戦略的に接近し、1955年に国交を樹立。それは特に1975年にインドに併合されたシッキム王国(1642年〜1975年)の滅亡を目の当たりにすることでインドへの警戒感を次第に強め、中国からの武器の調達や国境沿いの街道整備を進めることで対等友好政策を本格的に実践して行きます。


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中国の援助を受けて再建が進むダルバール広場 

 一方、 1950年平和友好条約はネパール経済の発展を促したのも事実である。オープン・ボーダー協定はインド資本によるネパール南部タライに広がる穀倉地帯の開拓を進め、両国の緩衝地帯となっていたマラリアが生息する広大な人跡未踏のタライの開発は人的・経済的交流を高め、同地の商工業地帯化に大きく貢献。一方、乾燥並びに耕地では積雪によって農耕が難しくなるネパールの丘陵部・山岳地帯の余剰人口が南部に流動形成し、仏教徒が国土に広く分布することでヒンズー国家が弱体化、且つ、インド系住民が国民の多数を占め始めるなか、国王による絶対君主制による統治が困難となり、1990年憲法立憲君主制に移行。主権在民がうたわれ、国王は「国家と国民の統合の象徴」とし、複数政党制を認めるなど民主化を図った国王として国民から厚く慕われたのがネパール王族殺害事件で命を落とすことになったビレンドラ国王である。


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南部タライに流動形成した山岳民族、ダーン郡にて 

 ネパール王族殺害事件が起きた2001年当時は富の平等な分配を唱え、農民を扇動する毛沢東主義派マオイストによる反政府ゲリラ運動と政府軍の10年以上に亘る内戦が激しさを増す前、領土拡大を共に企てながらもネパールの共産化を恐れるインドとチベット動乱の飛び火を恐れる中国の狭間にいたのは事実である。まさに緩衝国家の苦しみと言えよう。

 

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ネパール王族殺害事件の舞台となったナラヤンヒティ王宮

 王族殺害事件ではディペンドラ王太子(事件直後、危篤状態のまま名目上は国王に即位し、その3日後に死亡)が父であるビレンドラ国王ら多数の王族を殺害を王宮で銃殺した惨劇であり、事件後に即位した親印とされるビレンドラの弟ギャネンドラ氏によるクーデータとする説もあるが、真実は未だ解明されていない。少なくとも国民はディペンドラ王太子を犯人とする政府発表に疑惑の目を向けており、国民に愛されたビレンドラ国王亡き王国は失墜、2006年の内戦終結を経て、共和制を採択することで2008年に王政廃止が確定し、長い歴史に幕が下ろされました。 しかし、ビレンドラ国王が制定した1990年憲法が効力を失い、新憲法草案準備が開始、2015年の制定時にまた新たな苦難をネパールは迎えることになります。新憲法の内容を不服とするインドが内政干渉を強め、ネパールとの国境を封鎖、一切の物資の輸入を止める「経済封鎖」を強行したのである。


インドによる「経済封鎖」を報道するアル・ジャジーラ 

 2015年9月、ネパール政府は共和制以降、初の憲法制定を行うも、1950年平和友好条約の「オープンボーダー」協定に伴い南部タライに流入するインド系住民「マデシ」の権利保護を主張、内政干渉を強め、政府に対し、憲法改定の要求を行いました。当時の首相オリ氏はこれを拒否し、 印ネの外交関係は悪化、インドはその報復措置として約5ヶ月間、135日間に亘る「経済封鎖」を強行。石油やガス、医薬品のみならず食糧の供給も実質停止となり、国内は大きく混乱、GDPは同年4月に起きた大地震と合わせて50%減、2015/16年度GDP成長率は2%を割る大きな経済的な損失が発生しました。また内陸国の特有の問題も浮き彫りとなり、1950年平和友好条約と合わせて締結された「インド・ネパール通商・通過条約」で定められたネパールによる西ベンガル州コルカタ港の施設供与は有事の際に利用できず、よって、鎖国状態に陥ること。オリ首相は同年10月に石油含む日用品輸入に関する覚書を中国と締結し、合わせて内港供与を懇願、中国は「一帯一路」構想の一部とすることで後に合意。中国のネパールに対する高い影響力を受け、インドは2016年2月に「経済封鎖」を解除することとなりました。

 

f:id:masaomik:20181212043550j:image経済封鎖実行時においても笑みが耐えないネパール人 

 2015年の起きた2つの苦難を乗り越え、ネパールは国民の間で連帯感が高まり、ナショナリズムが高揚。復興と経済再建に多くの時間を要するも、経済封鎖の解除から約2年を経過した2017年12月に行われた初の下院選でオリ氏が率いる「統一共産党UML」が歴史的圧勝を収め、政権を長く担った親印政党及び内戦を主導したマオイストはともに敗北。国民が選んだのはインドでも中国でもなく、ネパールによる強い主権の確立であった。国内不和の原因とされた政権不安は複数政党の活動が認められた1990年以降、初となる連立政権(当時はマオイストとの「左派同盟」、現在、党が合併)による2/3の獲得議席、そして念願の長期安定政権。強く大らかなオリ氏にビレンドラ国王の姿を重なる国民も多くいるでしょう。幾多の苦難を乗り越え、緩衝国家としての知恵を得たネパールの未来はまさに始まったばかりである。

 

参考文献目録

ネパールからインドへの人口移動 : オープン・ボ ーダーの歴史とグローバル時代における位置づけ小林正夫(2014年)

ネパール・マヘンドラ国王時代における対外政策の一考察」徐学斐(2018年)

 

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ネパール記(1)中印に挟まれるヒマラヤ麓の国での原体験

 「カトマンズ市内でバスが連続して爆破されたようです。十分に気を付けて下さい」、現地側にそう伝えられたのは約半年にも及ぶ赴任が始まった2007年7月末、凹凸激しい道路に、渋滞の最中、クラクションを鳴らし続け全く動かない車。計画停電が実施される時間帯の夜は漆黒、50センチ前の視界すら全く見えず、夕立ちに使用した傘で前方の路面を触擦し、一歩ずつ時間をかけて進む。「どうやら来る国を間違えたな」と心底感じた当時のネパールは富の平等な分配を訴え、農民を扇動する毛沢東主義派マオイストと政府軍の10年以上に亘る内戦を終えた翌年、自動車産業のメカニカル・エンジニアを育成するプロジェクトの現地責任者として情報が全くない国へ赴くこととなりました。勿論、内戦終了直後の国に産業などあるはずもなく、唯一無二の資源は「ヒト」である。


f:id:masaomik:20181113212836j:image 街を彩るチベット由来の五色の祈祷旗「タルチョー」

 北は中国のチベット自治区に、東西南はインドに国境を面するネパールの国土面積は北海道の約2倍、人口は約3,000万人、同じヒマラヤ麓の国となるブータンの主要宗教がチベット仏教に対し、ネパールは約7割がヒンズー教、2割が仏教を信仰し、イスラム教徒やキリスト教徒、また、精霊「アニミズム」を信仰する山岳民族までもがその文化を後世に継承しています。言語学では北からチベットビルマ語派が南からインド・アーリア語派の影響を受ける多民族多宗教国家であり、the Diplomatの記事"The Geopolitics of Language in the Himalayas"によると、ネパールでは123言語の存在が確認がされ、文化や宗教が習合する地であることは、長年、大国からの侵略を受けながらも民族間を超えて結束し、独立を維持し続けたことと無縁であるとは言えないでしょう。また、南部に位置するネパール第三の都市ルンビニは仏教の開祖ブッダ生誕地であり、この国に多様性をもたらす大きな要因となっています。

 ヒマラヤ山脈の印象が強い同国は首都カトマンズの標高1,300メートルを基準とし、北緯中国チベット側に向かえば最大標高はエベレストの8,848メートル、南緯インド側に向かえば最低標高は約50メートル、特に南部一体は穀倉地帯、タライ平原と呼ばれる湿潤地帯が広がる亜熱帯気候、国民の約半数がこのタライに居を構えています。嘗てはマラリアが生息した大湿地帯、17世紀以降、インドの植民地化を進めるイギリス東インド会社の進駐をネパールが受けなかったのは、マラリアが生息する湿地帯を抜けて幾重にも聳える山々がその行く手を阻んだためとされています。いま現在のタライは東西1,000キロ超を結ぶハイウェイにインドとの通関施設が至るところにあり、多くの産業投資が進むネパール経済の大動脈。

 2007年、同国での経験は僕の人生を変えました。現地責任者と言えば聞こえが良いものの、事務所の立ち上げから現地主要大学からの人材獲得、御年60を超えるクライアントのボスと二人三脚で行い、採用面接は1人30分を1日20人計10時間を行った直後にはさすがに横たわってしまい、「北川、お前もまだまだだな」と笑われる始末。さすがは日本で一時代を築かれた方。嘗てブラジル工場を立ち上げた際に、幾度もウナギの稚魚の持ち込みを試みるも、全てが死滅。一度、偶然にして全ての稚魚が生きていたときがあったようで、「理由は分かるか?空輸ボックスのなかに一匹のピラニアがいたんだよ。それに食われまいとウナギの稚魚が必死に逃げ回り、生き延びた。そう、オレがピラニアだ」、どうやら組織にはある一定の緊張感が必要らしい。


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2007年駐在時の筆者

 現地最難関大学から採用したネパール人15名が僕の部下となり、ピラニアのボスとの間に入り、彼らを育てて行く。実はこのプロジェクト、タイと合わせた二国で実施されており、2007年の立ち上げは全くの手探りの状態のなか、A/Bテストを含んでいました。同じ大学の偏差値を卒業した新卒の学生に対し、一定期間、同一教育プログラムを与えたのち、自動車産業のエンジニアとして日本で就労するのは何名か。ネパールの劣勢が想定されるなか、結果は真逆のタイが15名中1名、ネパールが15名中14名(脱落者1名は唯一の女性雇用者)、内戦終了直後、荒廃したネパールにおいて、外国に出る意欲が何よりも強く、情報が遮断されたなか「世界の全てを知りたい」という貪欲な目とその熱量に完全に負かされた僕が涙ながらに語った赴任最終日の言葉は「いつか一緒に働こう」。

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ネパール最大のショッピングモール「カトマンズ・モール」、市内の景色は10年変わらず

 原発対応含め国内の仕事が一段落付き、再訪したのが2014年、目覚ましい経済発展を遂げたネパールは電力供給も十分となり、アジアで農場運営がしたいという長年の夢を叶えてくれると思った矢先の2015年に同国は度重なる不幸に襲われることとなります。死者9,000名近くを生んだネパール地震と、インドによる内政干渉及び内陸国ネパールとの国境全てをインドが封鎖し、物資の輸入を止める「経済封鎖」の実施、まさに建国以来最大の危機である。

 

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とりあえず成都でアリババの生鮮スーパー行ってきた

アリババが運営するスーパー「盒馬鮮生」(フーマーフレッシュ)、同社が展開するニューリテイル中核店舗、いま現在中国内で40店舗弱を展開
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有人の会計コーナーはなく、入口も無防備、店舗レイアウトは極めてシンプルで、店内ではフリーWiFiが使用可能
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真っ先に水産コーナに進む
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商品に対してバーコードと値札の表示
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小ぶりな上海蟹も2,000キロ離れた内陸成都まで輸送
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その場で調理、キッチンにはカメラが設置されており、購買者によるモニタリングが可能
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料理①
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料理②
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店内は専用端末を持ったデリバリー用のピッキングスタッフが少なくとも10名ほど
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中には走るスタッフもいて、30分配送のためにテンヤワンヤ
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採れたての新鮮野菜が充実、右下には「不卖隔夜菜」、翌日は売りませんよと表記
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色別で曜日が予め指定されており(水曜は3でオレンジ)、消費者にとって非常に分かりやすい
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玉子は生食用まで販売
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デリバリー用にピックされたものはバッグに入れて天井に備えたベルトコンベアで倉庫へ
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店内の天井はベルトコンベアは複数経路あり、何かしらのデータに基づき仕分け
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真下からも撮ってみた
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店内、ベルトコンベアで移動中

いよいよ会計、基本的には商品バーコードをスキャンさせるだけ、見る限り、店員が必ずサポート(購入商品を買い物袋に入れるのも店員)
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タッチパネル形式で購入商品、単価、個数が全て確認出来る
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支払いはアリペイ、スマホをかざすだけ
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支払い完了(支付成功)
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店内、目を引いたのはバーコードリーダーで得られる産地情報、右下のバーコードをアプリで読み込むだけ
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産地情報は詳細に記載されていて、一部の商品は一連の出荷体制まで画像表示、トレサビリティ情報に対応

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食べ方まで説明されており、とにかく消費者目線

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結論、生鮮品の鮮度は高く、産地管理も徹底されていて、とにかく消費者ファースト。充実しているアプリから30分配送のオーダー需要が高まっているようで、それにもとても納得