2015年4月25日、日本時間15時頃に速報で流れて来たネパールで大地震発生のニュース、現地映像を見た瞬間に思わず声を失いました。「カトマンズが壊滅じゃないか」。短期駐在終了後、日本でキャリアを積む僕の長年の夢であったアジアでの農場運営は目覚ましい経済発展を遂げているネパールで仲間と共に達成していく決意が出来た2014年の再訪後、足を運び始めるなか、偶然にも地震発生直前までネパールに滞在。夜にかけて徐々に被害状況の内容が具体的な情報として入って来ます。インターネット上では、Facebookが恐らく始めて自然災害及びテロリズム発生における安否確認を行う"Safety Check"機能がスタートし、モニターに釘付け。最終的な被害はカトマンズ以北を中心に死者9,000名近くとなり、中国と国境を面するネパール北部を中心に多くの家屋が倒壊、今尚、震災復興に向けた長い歳月を要する取り組みが行われています。
被災者の安否情報が右の"SAFE"ボタンで確認、最後の1人の無事が確認されるまで3日を要す
甚大な被害が発生したなか、気付かされたことは食糧や医薬品を中心とした物資の配給が、物流や政治的事由から大幅に遅延しているにも関わらず、被災者による略奪行為が殆ど起きなかったということ。これは後に起きるインドによる経済封鎖において日用品が輸入されないなか、その限られた配給に市民が正しく並ぶ姿にも重なります。また、首都カトマンズにあるネパール最大のヒンズー教寺院「パシュパティナート寺院」では多くの犠牲者の遺体が荼毘に付され、その遺灰は「聖なる川」ガンジス川の支流となるバグマティ川に流されます。焚き木が不足するほどの遺体があったとされ、また本来、異教徒であるはずの仏教徒の遺族と寄り添う姿を見るに、ネパールという国は、民族間の軋轢を超え、苦難においては互いに手を取り合う多民族多宗教国家であることを強く認識した瞬間でもありました。
カトマンズ中心にある世界遺産登録の「ダルバール広場」、回りは未だ多くの建物が倒壊
ネパールの歴史は2008年に王政が廃止されるまでは18世紀中頃から続くネパール王国として長く繁栄し、その前身ゴルカ王国まで遡ると約500年に近い歴史を有する国。いま現在の領土及びインドとの基本国境線が確定したのが19世紀前半、南アジアで植民地を拡大するイギリス東インド会社との戦いに破れるも、イギリスの保護国となり、王政は存続。1947年にインド・パキスタンが分離独立した後、ネパール王国がイギリス東インド会社と交わした条約での特権は事実上、インドが継承することとなり、ネパールとインドは1950年に「インド・ネパール平和友好条約」(以下、1950年平和友好条約)を締結。互いの国民は自由に国境を通過出来る「オープン・ボーダー」協定を含み、以降、インドによる侵食が本格的に始まることとなりました。それに対し、ネパール側は今なお、1950年平和友好条約を不平等条約とし、インドにその改定要求を行っています。
ネパール南部タライにあるインドとの国境、オープンボーダー協定により通行が自由
2001年に起きた国家最大の苦難となる「ネパール王族殺害事件」は、共産主義の南下を予防するために締結した1950年平和友好条約と、以降、始まるインドによる国内政治への介入が事件に至る背景にあると推論します。特に、友好関係を害する恐れのある隣国との摩擦に関する通報義務(第2条)及び、インドによる武器輸入の独占権(第5条)は長くネパール王国を苦しめることになりました。1951年に王政復古に果たしたネパール王国の第8代君主トリブバン以降の歴代君主がインドの侵略を恐れるなか、中国と戦略的に接近し、1955年に国交を樹立。それは特に1975年にインドに併合されたシッキム王国(1642年〜1975年)の滅亡を目の当たりにすることでインドへの警戒感を次第に強め、中国からの武器の調達や国境沿いの街道整備を進めることで対等友好政策を本格的に実践して行きます。
中国の援助を受けて再建が進むダルバール広場
一方、 1950年平和友好条約はネパール経済の発展を促したのも事実である。オープン・ボーダー協定はインド資本によるネパール南部タライに広がる穀倉地帯の開拓を進め、両国の緩衝地帯となっていたマラリアが生息する広大な人跡未踏のタライの開発は人的・経済的交流を高め、同地の商工業地帯化に大きく貢献。一方、乾燥並びに耕地では積雪によって農耕が難しくなるネパールの丘陵部・山岳地帯の余剰人口が南部に流動形成し、仏教徒が国土に広く分布することでヒンズー国家が弱体化、且つ、インド系住民が国民の多数を占め始めるなか、国王による絶対君主制による統治が困難となり、1990年憲法で立憲君主制に移行。主権在民がうたわれ、国王は「国家と国民の統合の象徴」とし、複数政党制を認めるなど民主化を図った国王として国民から厚く慕われたのがネパール王族殺害事件で命を落とすことになったビレンドラ国王である。
南部タライに流動形成した山岳民族、ダーン郡にて
ネパール王族殺害事件が起きた2001年当時は富の平等な分配を唱え、農民を扇動する毛沢東主義派マオイストによる反政府ゲリラ運動と政府軍の10年以上に亘る内戦が激しさを増す前、領土拡大を共に企てながらもネパールの共産化を恐れるインドとチベット動乱の飛び火を恐れる中国の狭間にいたのは事実である。まさに緩衝国家の苦しみと言えよう。
ネパール王族殺害事件の舞台となったナラヤンヒティ王宮
王族殺害事件ではディペンドラ王太子(事件直後、危篤状態のまま名目上は国王に即位し、その3日後に死亡)が父であるビレンドラ国王ら多数の王族を殺害を王宮で銃殺した惨劇であり、事件後に即位した親印とされるビレンドラの弟ギャネンドラ氏によるクーデータとする説もあるが、真実は未だ解明されていない。少なくとも国民はディペンドラ王太子を犯人とする政府発表に疑惑の目を向けており、国民に愛されたビレンドラ国王亡き王国は失墜、2006年の内戦終結を経て、共和制を採択することで2008年に王政廃止が確定し、長い歴史に幕が下ろされました。 しかし、ビレンドラ国王が制定した1990年憲法が効力を失い、新憲法草案準備が開始、2015年の制定時にまた新たな苦難をネパールは迎えることになります。新憲法の内容を不服とするインドが内政干渉を強め、ネパールとの国境を封鎖、一切の物資の輸入を止める「経済封鎖」を強行したのである。
インドによる「経済封鎖」を報道するアル・ジャジーラ
2015年9月、ネパール政府は共和制以降、初の憲法制定を行うも、1950年平和友好条約の「オープンボーダー」協定に伴い南部タライに流入するインド系住民「マデシ」の権利保護を主張、内政干渉を強め、政府に対し、憲法改定の要求を行いました。当時の首相オリ氏はこれを拒否し、 印ネの外交関係は悪化、インドはその報復措置として約5ヶ月間、135日間に亘る「経済封鎖」を強行。石油やガス、医薬品のみならず食糧の供給も実質停止となり、国内は大きく混乱、GDPは同年4月に起きた大地震と合わせて50%減、2015/16年度GDP成長率は2%を割る大きな経済的な損失が発生しました。また内陸国の特有の問題も浮き彫りとなり、1950年平和友好条約と合わせて締結された「インド・ネパール通商・通過条約」で定められたネパールによる西ベンガル州コルカタ港の施設供与は有事の際に利用できず、よって、鎖国状態に陥ること。オリ首相は同年10月に石油含む日用品輸入に関する覚書を中国と締結し、合わせて内港供与を懇願、中国は「一帯一路」構想の一部とすることで後に合意。中国のネパールに対する高い影響力を受け、インドは2016年2月に「経済封鎖」を解除することとなりました。
経済封鎖実行時においても笑みが耐えないネパール人
2015年の起きた2つの苦難を乗り越え、ネパールは国民の間で連帯感が高まり、ナショナリズムが高揚。復興と経済再建に多くの時間を要するも、経済封鎖の解除から約2年を経過した2017年12月に行われた初の下院選でオリ氏が率いる「統一共産党UML」が歴史的圧勝を収め、政権を長く担った親印政党及び内戦を主導したマオイストはともに敗北。国民が選んだのはインドでも中国でもなく、ネパールによる強い主権の確立であった。国内不和の原因とされた政権不安は複数政党の活動が認められた1990年以降、初となる連立政権(当時はマオイストとの「左派同盟」、現在、党が合併)による2/3の獲得議席、そして念願の長期安定政権。強く大らかなオリ氏にビレンドラ国王の姿を重なる国民も多くいるでしょう。幾多の苦難を乗り越え、緩衝国家としての知恵を得たネパールの未来はまさに始まったばかりである。
参考文献目録
「ネパールからインドへの人口移動 : オープン・ボ ーダーの歴史とグローバル時代における位置づけ」小林正夫(2014年)
「ネパール・マヘンドラ国王時代における対外政策の一考察」徐学斐(2018年)
ネパール記目次