ネパール記(1)中印に挟まれるヒマラヤ麓の国での原体験

 「カトマンズ市内でバスが連続して爆破されたようです。十分に気を付けて下さい」、現地側にそう伝えられたのは約半年にも及ぶ赴任が始まった2007年7月末、凹凸激しい道路に、渋滞の最中、クラクションを鳴らし続け全く動かない車。計画停電が実施される時間帯の夜は漆黒、50センチ前の視界すら全く見えず、夕立ちに使用した傘で前方の路面を触擦し、一歩ずつ時間をかけて進む。「どうやら来る国を間違えたな」と心底感じた当時のネパールは富の平等な分配を訴え、農民を扇動する毛沢東主義派マオイストと政府軍の10年以上に亘る内戦を終えた翌年、自動車産業のメカニカル・エンジニアを育成するプロジェクトの現地責任者として情報が全くない国へ赴くこととなりました。勿論、内戦終了直後の国に産業などあるはずもなく、唯一無二の資源は「ヒト」である。


f:id:masaomik:20181113212836j:image 街を彩るチベット由来の五色の祈祷旗「タルチョー」

 北は中国のチベット自治区に、東西南はインドに国境を面するネパールの国土面積は北海道の約2倍、人口は約3,000万人、同じヒマラヤ麓の国となるブータンの主要宗教がチベット仏教に対し、ネパールは約7割がヒンズー教、2割が仏教を信仰し、イスラム教徒やキリスト教徒、また、精霊「アニミズム」を信仰する山岳民族までもがその文化を後世に継承しています。言語学では北からチベットビルマ語派が南からインド・アーリア語派の影響を受ける多民族多宗教国家であり、the Diplomatの記事"The Geopolitics of Language in the Himalayas"によると、ネパールでは123言語の存在が確認がされ、文化や宗教が習合する地であることは、長年、大国からの侵略を受けながらも民族間を超えて結束し、独立を維持し続けたことと無縁であるとは言えないでしょう。また、南部に位置するネパール第三の都市ルンビニは仏教の開祖ブッダ生誕地であり、この国に多様性をもたらす大きな要因となっています。

 ヒマラヤ山脈の印象が強い同国は首都カトマンズの標高1,300メートルを基準とし、北緯中国チベット側に向かえば最大標高はエベレストの8,848メートル、南緯インド側に向かえば最低標高は約50メートル、特に南部一体は穀倉地帯、タライ平原と呼ばれる湿潤地帯が広がる亜熱帯気候、国民の約半数がこのタライに居を構えています。嘗てはマラリアが生息した大湿地帯、17世紀以降、インドの植民地化を進めるイギリス東インド会社の進駐をネパールが受けなかったのは、マラリアが生息する湿地帯を抜けて幾重にも聳える山々がその行く手を阻んだためとされています。いま現在のタライは東西1,000キロ超を結ぶハイウェイにインドとの通関施設が至るところにあり、多くの産業投資が進むネパール経済の大動脈。

 2007年、同国での経験は僕の人生を変えました。現地責任者と言えば聞こえが良いものの、事務所の立ち上げから現地主要大学からの人材獲得、御年60を超えるクライアントのボスと二人三脚で行い、採用面接は1人30分を1日20人計10時間を行った直後にはさすがに横たわってしまい、「北川、お前もまだまだだな」と笑われる始末。さすがは日本で一時代を築かれた方。嘗てブラジル工場を立ち上げた際に、幾度もウナギの稚魚の持ち込みを試みるも、全てが死滅。一度、偶然にして全ての稚魚が生きていたときがあったようで、「理由は分かるか?空輸ボックスのなかに一匹のピラニアがいたんだよ。それに食われまいとウナギの稚魚が必死に逃げ回り、生き延びた。そう、オレがピラニアだ」、どうやら組織にはある一定の緊張感が必要らしい。


f:id:masaomik:20181125142621j:image

2007年駐在時の筆者

 現地最難関大学から採用したネパール人15名が僕の部下となり、ピラニアのボスとの間に入り、彼らを育てて行く。実はこのプロジェクト、タイと合わせた二国で実施されており、2007年の立ち上げは全くの手探りの状態のなか、A/Bテストを含んでいました。同じ大学の偏差値を卒業した新卒の学生に対し、一定期間、同一教育プログラムを与えたのち、自動車産業のエンジニアとして日本で就労するのは何名か。ネパールの劣勢が想定されるなか、結果は真逆のタイが15名中1名、ネパールが15名中14名(脱落者1名は唯一の女性雇用者)、内戦終了直後、荒廃したネパールにおいて、外国に出る意欲が何よりも強く、情報が遮断されたなか「世界の全てを知りたい」という貪欲な目とその熱量に完全に負かされた僕が涙ながらに語った赴任最終日の言葉は「いつか一緒に働こう」。

f:id:masaomik:20181125182430j:image

ネパール最大のショッピングモール「カトマンズ・モール」、市内の景色は10年変わらず

 原発対応含め国内の仕事が一段落付き、再訪したのが2014年、目覚ましい経済発展を遂げたネパールは電力供給も十分となり、アジアで農場運営がしたいという長年の夢を叶えてくれると思った矢先の2015年に同国は度重なる不幸に襲われることとなります。死者9,000名近くを生んだネパール地震と、インドによる内政干渉及び内陸国ネパールとの国境全てをインドが封鎖し、物資の輸入を止める「経済封鎖」の実施、まさに建国以来最大の危機である。

 

--

ネパール記目次

note.masaomi.jp